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今週の武将「張燕」  

三月に三国志12発売とか…面白そうという期待はしてません。
でもオンライン対戦ができるとか…しかもアイテム課金があるとか。
おのれ…ワンピース無双が結構売れ行き良くなる雰囲気みたいなんだからそこから搾り取れ!!

って、今回の記事と関係ない話だった。

今回からこのシリーズは少し違った語りにしようと思います。


で、取り上げる人は張燕です。
コーエーのゲームとかやった人ならわかると思いますけど、洛陽から北にずっといったところに勢力を築いた人です。
元々の姓は褚と言ったらしいのですが、黄巾の乱に呼応して張牛角という人の下に入ったんですけど、この張牛角が戦死したためにその後継となって張の姓に改めたと『三国志』には載っています。
陳寿の『三国志』にも「二公孫陶四張伝」の中に「張燕」という名前で伝が立てられておりますが、どうもこの名も本当の名ではなかった可能性が高く、元々張燕が敏捷であったために「張飛燕」と呼ばれ、後漢の霊帝から官位を授けられた時にその名ではちょっとマズイことから張燕という名にしたのではないかとも考えられています。もう一つ曹操によって官位を送られた時に張燕を名乗ったという説(K澤大学のI井仁氏)もありますが、こっちの場合は『三国志』巻六「魏書袁紹伝」に張燕が曹操に降るよりも前に沮授が「張燕」と呼んでいることから、史料の記述を何の疑いも無くそのまま容れるという危険な手法を取った場合、曹操から官位を送られた時期に張燕を名乗ったという可能性は霊帝の時に名乗ったという可能性よりも格段に低くなります。これ完全なる蛇足です。
張飛燕という名の方は知れ渡っていたみたいで、『三国志』巻八「魏書張燕伝」の注に引く陸機の『晋恵帝起居注』に彼の曾孫である張林についての記述が載っていますが、その初めに「張林、飛燕の曾孫」と書かれています。当時の魏晋の社会でも本名よりも別の名称で知られる人もおり、曹操配下の許褚などは虎癡と呼ばれ、魏晋時代の多くの人が許褚の姓名を虎癡だと思っていたと『三国志』の許褚伝に書かれています。張燕も「張飛燕」という名で通っていたのかもしれません。

さて、まさか名前だけでいきなりこの長文。
もう書くの面倒なのでこのまま終わってもいいくらいですが、張燕=張飛燕というだけの記事なってしまうと、この人を取り上げた意味があまりないです。
当時の社会では本名とは違う名称で呼ばれた人がいたんですよという記事なら許褚でも可能です。
張燕といったら黒山じゃないですか。

黒山・白波の賊…三国志を一通り読んだ人ならその名を記憶している人もいることでしょう。
もしも知らないというのならそれはボ●てるか、横光三国志を読んで三国志を知った気になっている人です。
今すぐ私の貼ったアフィリエイトで三国志演義を買って下さい。
演義第十一回で袁紹と呂布に敗れたというほんの僅かな文が彼の初登場です。というか以後も度々登場しますけど活躍はしてません。演義読んでも張燕はモブキャラに等しい扱いです。
黒山知らない人間はもぐりみたいに言ったことを撤回すると共にお詫び申し上げます。
あいつホントにダメな奴なんすよ。
(注意:ダメなのは私です)

って、ダメな人間ではありません。

この人は上にも書きましたけど『三国志』の「二公孫陶四張伝」に入ってます。ここに入れられている人は後漢末の群雄です。
ゲームでも基本貧弱な勢力ですけど群雄としてプレイ可能ですから!

そんな彼は黄巾の乱に呼応して兵を挙げます。三国志の「張燕伝」には「少年」を集めたと書いてますから、少年趣味だったんですね(と現代の「少年」というイメージで話を通して張燕を貶めようとする作戦)
張燕は美少年(注意:本気にしないで下さい)を引き連れて各地を荒らしまわり、故郷の真定に帰った頃には一万余りの数になっていたとあります。因みに真定というの趙雲の故郷でもあり、恐らく趙雲は勢力盛んな張燕(この頃だと「褚なんとか」か「褚飛燕」という名だと思われます)のことを知っていたと思われます。はい、どうでもいい話でした。
さてさて張燕ですが、この後張牛角という勢力と組むことになり、張牛角をボスに推しますがこの張牛角は戦いで矢を受けて死ぬことになります。その時に皆に必ず張燕をボスにするようにと言ったために張燕がボスとなって勢力を率いることになりました。
その後の張燕は常山・趙郡・中山・上党・河内の諸山谷と相通じて、多くの者たちが従うようになってその数は百万に至ったとも言われ、「黒山」を号しました。
この黒山は基本反政府勢力ですけど後漢側はこれを征討することはできず、張燕が使者を遣して降ることを乞うたこともあって、張燕に平難中郎将を授けるという懐柔策を行いました。

さてさて、こう見ると張燕が百万を号するほどの勢力の首魁です。
ただし、それが本当だったのかどうかというと疑わしく、石井仁氏は『三国志』張燕伝の注に引く『九州春秋』には後漢が黒山の将帥楊鳳を黒山校尉として諸山賊を領せしめたという記述と、『後漢書』巻七十一「朱雋伝」の張燕を平難中郎将・使領河北諸山谷事にしているという記述とのある種の矛盾をちらっと述べてます。
また黒山と袁紹との争いでは、黒山側が一時は鄴を陥落させたものの結果的には袁紹らによって主要な将帥が滅ぼされたということがありましたが、この行動において(裏で糸を引いていたのは長安政権だったのかもしれませんが)中心的な役割を果たしたのは于毒であって、張燕が実際に動くのは于毒らが討たれた後で、袁紹が常山へと侵入する時であったことなどを見て、魏郡以北・常山以南一帯は(鄴を攻撃した)于毒らを中心にした勢力があり、張燕の影響力は殆ど及んでいなかったのではないかと述べています。
そして『三国志』の張燕伝は潤色が加えられたものであり、張燕は黒山の一勢力に過ぎなかった(とは言うものの、石井氏も記事末に載せている論文の注で述べていることですが、張燕は四営屠各・雁門烏桓らとも協力関係を築いていることからかなり大きな勢力であったことは間違いないです)だろうと言っています。

そんな大きな勢力だった張燕も袁紹との抗争によって勢いは弱まり、共に袁紹と戦っていた公孫瓚も滅ぼされ、結局は鄴を落とした曹操の下へいくことになるのでした。
こう書くとなんだか情けないように感じますが、曹操へと降った時期の前後は、曹操と袁氏との抗争がまだ続いており、袁氏の側には蹋頓に代表されるように烏丸も付き、加えて曹操に一度は降ったもの再び反旗を翻した幷州の高幹が、黒山の将帥張白騎らと繋がって曹操に対したことは、今の山西省のあたりが当時かなり不安定なものであり、そんな中で黒山の有力な勢力であった張燕が曹操の下へと付いたことは、曹操の山西省一帯の支配の道としては大きな影響があったものと思われます。

って、このまとめ方…明らかに深夜2時過ぎで眠くなっているからてきとうに書きましたって感じの内容!
実際深夜2時過ぎですから!!
こんな時間まで白文読んでるとか…なんか悲しくなってきましたよ。
ということで今週の武将はここまで!

お休みなさい!!


参考…というか半分近くパクった文献

石井仁「黒山・白波考」『東北大学東洋史論集』9 2003年
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2012/02/08 08:00 [edit]

category: 三國志「今週の武将」

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