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前回、田州のゴタゴタから瓦氏夫人と廬蘇らが押す(?)岑芝が田州を治めることになりました。
そのゴタゴタから瓦氏夫人の影響力というのが否応なく上がってきたんです。

それは岑芝が嘉靖三十二年(1553)に世を去ってその子の岑大寿が後を継ぐはずなんですけど、まだ幼いですから瓦氏夫人が実質的な統治者となりました。

そしてその翌年に瓦氏夫人は倭寇討伐へ行くことになります。



さて倭寇についてですが…。

現在の通説は…東アジア全域に渡る規模のもので、前期と後期に分けることができるとするものです。
前期は侵略的なものだったが、後期はまずその構成が日本人は3割いるかいないか程度であり、大半は中国人で主体となって活動していたとかですかね。
特に後期は海賊的なものというよりも私的な商人という色があったことを強調しています。(あれ、強調していたかな?)
これは日本においてそれこそ戦前からそういう見方がありましたし、中国でも現在はそういう見方になっている…と思います。
ただ、後期倭寇の見方としてはそれまでの海賊といったイメージに対するアンチテーゼという意味合いがあった感は拭えず、もっと別な視点でみる必要があるともいわれています。

相田洋氏は東アジアの奴隷貿易という視点から見た場合、前期が散発的であったものに対して後期はより広域で組織的なものとなっていることから、奴隷貿易のシステムは前期から後期へと発展したと捉え、両者の間に連続性があると考えて、前期と後期に分けることが果たしてどこまで妥当なのか疑念を示しています。
また日本人や中国人のどちらが主体かという論について近代的概念を持ち込み過ぎているきらいがあることも挙げています。

なんか話が違う方向へ行きそうな予感…

取り敢えず倭寇はいろんな人たちが集まった集団ということで。


さて、瓦氏夫人が明朝からの倭寇討伐に応じて自ら兵を率いて赴くことになります。
実はこれ嘉靖大倭寇といわれて、最も倭寇が盛んだったときなんです。

明の朝廷はこの倭寇に対して大規模な掃討を展開するんです。
それで嘉靖三十三(1554)年に総督大臣に張経という人が就任し、この人の上奏で狼兵の徴兵が決まるのでした。

先にも述べましたとおり、岑大寿はまだ幼年でしたので瓦氏夫人が代って狼兵を率いて倭寇討伐へ赴くことになります。
その数は四千百名余り。
因みにこの時の広西各地の出兵者の数ですが…。

田州4100余名
帰順州862名
南丹州550名
那地州590名
東蘭州750名

 


瓦氏夫人の率いる田州の狼兵が圧倒的に多いですよね。
思恩府の兵についてもしかしたら田州に含まれているかもしれませんが、他に比べたら多いです。

瓦氏夫人は最初一万三千人を調発しようとしたんですが許るされた数は四千人あまりだったといいます。
瓦氏夫人の気合いの入り方が違います。
一説によるとこの出兵は夫が乱を起こし、それに対する汚名を払うためであったとも言われてますが、もしかしたらその通りだったのかもしれませんね。

さて瓦氏夫人たちの目的地は金衛山(現在でいうと上海の南西の方)という遠方で、半年以上かけた嘉靖三十四年の三月に到着しました。
どうも広西の他の狼兵の軍よりも早くついたようです。

瓦氏夫人はすぐに敵と戦うことを望んだようなんです。
そして彼女は一度倭寇と戦い大敗し、多くの将(?)を失うことになりました。
倭寇側も狼兵に勝利したことによって勢いづくのです。

その後、永順と保精の土兵が到着して再び倭寇と対するのです。

前にどこかで湖広の土兵が明朝最強と言いましたが、正確にいうならこの永順と保精の土兵のことです。
武芸に秀でて天下にこれよりも強い者はいないと言われ、銃を使用しなくても十分倭寇と戦えたことでしょう(推定的な表現…って『江南経略』巻八下「雑著」にも憶測っぽい感じで書いてるんですよ(T-T))

この湖広の土兵と広西の狼兵の戦闘方法に関する軍律はキチ○イじゃないかと思うほどのものでして、湖広土兵は戦いで功績の証となる敵の首を取ることを禁じ、違反者は死罪。
広西の狼兵の中でも「真狼」といわれた東蘭・那地・南丹の狼兵は、一人が敵に向かっていったら左右の者が敵を挟み撃ちにする形をとり、一伍(七人?)がこれを救うという戦法で、もしもこれを行わずに敵へ向かった者が死んで左右の人間も挟み撃ち出来ない場合は一伍の者を全員死罪。また功績のない者は耳を切り落とすという非常に厳しいものでした。
他にも命令を行わなかった者、敵から退く者、味方の恐怖心を煽る発言をした者、敗走している敵を追撃しなかった者なども死罪。

厳し過ぎるんですが…。

さて、湖広土兵も加わっていよいよ倭寇と戦闘します。
王江の戦いで初めて勝利し、その後の戦いにも勝利をして倭寇側に大打撃を与えたのです。

その後、この倭寇討伐なのですが指揮をしていた張経が朝廷内で誣告されて失脚し、間もなく処刑されるという事態が起きました。

瓦氏夫人は張経が失脚すると、病を理由に狼兵共々田州へと帰還するのです。
その二年後の嘉靖三十六(1557)年にこの世を去っていることから本当に病気だった可能性もありますが、張経失脚後というのが何かあると想像したくなりますよね。


これまでダラダラと無駄に長くしましたが、瓦氏夫人は広西の動乱の中心といえる人物たちの近くにおり、また自身も重要な役割を果たし、奇しくも東アジア史上でも大きな出来事だった倭寇のそれも最も盛んだった時に自ら兵を率いてこれと対したという、まさに劇や物語のネタになりやすい人生を送った女性でした。
ふと考えてみたら、倭寇と対した瓦氏夫人って広西の土官たちの興亡の末に表舞台へと出て行って、対倭寇へと赴くんですから、広西の土官体制によって生じたものと見られなくもないですよね(環境決定論)

このシリーズに使った参考文献(基本資料はのぞきます)

相田洋「東アジア貿易と倭寇」『東アジア世界史探究』汲古書院 1986年
岡田宏二「明朝による「湖広土兵」と「広西狼兵」の調発について」『東洋研究』136 2000年
岡野昌子「明代土司制度考」『待兼山論叢』 創刊号 1967年
奥崎裕司「中世東アジア世界と倭寇」『東アジア世界史探究』汲古書院 1986年
田中健夫『倭寇-海の歴史-』 ニュートンプレス 1982年
谷口房男「思恩田州叛乱始末記」 『史苑』 42巻1・2号 1982年
谷口房男「嘉靖海寇反乱掃討と瓦氏夫人」 『東洋大学文学部紀要』37集 史学篇9 1983年

他に中国語の本読んだ気がするんですが忘れました。

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2009/08/08 00:00 [edit]

category: 瓦氏夫人

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ここから瓦氏夫人が出てきます。

というか、ここと倭寇のところしか出ないんですけどね。




前回の記事に終わり書きましたが広西西部、特に田州は二つに分割されてその一方を岑猛の四男岑邦相が治めることになりました。
四男ということは少なくとも男の兄弟があと三人いるということです。

ここで岑猛の男子について…

長男 岑邦佐 正妻張氏の子 武靖州土官
次男 岑邦彦 う林氏の子(一説には瓦氏夫人の子とも)
三男 岑邦輔 母は身分が低い その他のことは不詳
四男 岑邦相 韋氏の子

長男の岑邦佐は田州ではなく武靖州の土官となったことは、岑猛が林氏を寵愛して正妻の張氏を疎んじたためとも言われております。岑猛が明と戦ったときにはその職から退いておりましたが、その後王守仁によって再び同じ職に任命されました。
そして次男の岑邦彦は岑猛が明と戦ったときに死亡しており、身分の低い母を持った三男はスルーして世継ぎとして四男の岑邦相が田州を治めることになったという田州岑氏のお家事情がありました。

そして岑猛の兵乱がなかったら岑猛の後を継いでいたかもしれない次男岑邦彦には岑芝という子がおりまして、祖母にあたる林氏と瓦氏のところに身を寄せていたのです。

これはもうお家争いというお約束な構図ですよ。
と言っても林氏・瓦氏と岑邦相の対立の直接的原因は、岑邦相が林氏と瓦氏の田畑を削っていたことみたいです。

そして田州と田寧の政争というのも出てきました。
廬蘇が政治的影響力を強めてくると、岑邦相がこれを快く思わず、密かに廬蘇を殺害しようと謀るんですけど、このことを廬蘇は知ることになります。

こうして林氏・瓦氏と廬蘇が手を結んで岑芝擁立を謀るのです。

廬蘇は刺客を用いて岑邦相を殺害しようとしますが、これは岑邦相が察知して逆に刺客を返り討ちにします。
しかし廬蘇は兵を伏せており、岑邦相に味方する者を殺害した後に岑邦相の邸宅を包囲して、夜に乗じて岑邦相を縊り殺しました。
この廬蘇の岑邦相殺害は瓦氏夫人と共に行ったことが『明史』巻三百十八「広西土司伝」田州の条に書かれております。
なんという烈女…。

岑邦相を排除したことで対立は終わったと思えるかに見えたのですが、事態はさらに大きな事態へと発展します。

廬蘇らのこの行動に対して周辺の土官が反発し、岑猛の長男である岑邦佐を擁立して軍を起こします。

反廬蘇軍は田州を攻撃して多くの人を殺掠し、廬蘇も這々の体で難を逃れる有様でした。
そして廬蘇は帰順州に救いを求めるのです…この時帰順を治めていたのは瓦氏夫人の兄弟の岑瓛(シンケンって読みます。字が潰れててごめんなさい)です。
また廬蘇の娘はこの岑瓛の妻だったという…こうした関係から岑瓛は反廬蘇軍の首謀者の一人の根拠地が手薄になっている所を攻撃しようとし、これを聞いた反廬蘇軍は兵を引くんです。
そこを廬蘇軍が追撃して大勝利をおさめる…ということで反廬蘇運動を押さえ込むことに成功します。

こうして岑邦相の後継として岑芝がたつことになります。

一連の流れから、瓦氏夫人の田州での立場がかなり重要なものだった(もしくはその後否応なく重要になっていった)といえるでしょう。

その十数年後に岑芝が世を去り、瓦氏夫人が田州の執政となったこともそうしたことの反映だったのかもしれません。

2009/08/05 00:00 [edit]

category: 瓦氏夫人

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さて、前回の続きです。

岑猛が妻の瓦氏夫人の父である岑璋に殺害されて兵乱はおさまりました。

明は岑猛の治めていた田州の処置を直ちに行います。

1,将を一人選んで兵を訓練させてこの地の治安をはかる
2,田州の有力勢力の長の名称を明朝の法に合わせて改め、俸給を与える
3,官製学校を置いて教化する(所謂漢化政策)
4,お上の倉庫の設置
5,田州の税に関すること(2年以上前の未納分の免除とそれ以後の徴税の猶予)
6,明朝の直接支配のための同地の官職の整備

これは両広(広東と広西)都御史から提議されたものです。
本当はもう一つあげられていたんですけど、田州には直接関わることじゃなかったので省きました。

1については軍事的治安的なものですし、2と6は田州の直接支配のための体制改変政策でしょうし、4は徴税権の問題で、5は4を行うに当たっての田州の現場を鑑みてのことでしょうし、3は…まあ、そうでしょうし。

これは朝廷に採用されて実施されることになりました。

しかし、この直後にまた大きな出来事が起きるのです。


田州の有力者の一人である廬蘇が思恩府の王受らと共に岑猛の四子岑邦相を擁して反乱を起こしたのです。
廬蘇らは岑猛は実はまだ生きていると吹聴し、また大越(ベトナム)から二十万の兵を借りて明に対しました。

この反乱が起きた年のベトナムの情勢ですが、黎朝大越は実力者の莫登庸によって時の皇帝は無理矢理禅譲させられて滅亡し莫朝になります。
この反乱が起きた数ヶ月後の出来事です。
この時、廬蘇らを支援した人物は時の権力者莫登庸であることは『明世宗実録』巻七十四の嘉靖六年三月の条に書かれているので恐らくその通りでしょう。
ただ二十万の兵を借りたというのは誇張な気がします。

本来禅譲という大事な時期にこのような出兵があったことについて谷口房男氏は疑問の余地があると述べております。
しかし莫登庸の側からすると、王朝を建国しようという時に隣接地の広西で交流があったであろう土着勢力の力が弱まり、代わって明朝の影響力が出たとなるとあまり歓迎できることではありません。
ただでさえ明は広西に八万という軍を送り込んでいたのですから、明朝のその軍事行動が広西だけを意識したものであったと考えるよりも、やはり大越を意識した軍事行動であったと莫登庸側も思っていたことでしょう。
そうなると反莫登庸の勢力が広西を平定した明と結ぶかもしれませんから、莫登庸もこの対外的反乱支援は国内の反対勢力が明へと近付き難くするための行動であったと見ることもできます。
あくまで想像の範囲ですが。


無駄に長い妄想だった…(T▽T)


さて、莫登庸の支援を受けた反乱軍と「岑猛は実は死んでいなかった」という流言で田州はおろか広西西部は大きく動揺しました。

田州だけではなく思恩まで攻撃されて落とされようとしている状況に至ると、両広都御史の施策が失敗であったということになり、明の皇帝は大いに怒りまして、建議した人物に代わって王守仁を起用して反乱の平定に当たらせました。


王守仁…陽明を号した人です。
わかりましたね?

陽明学のあの陽明です。

前回の記事で岑猛が時の実力者である宦官の劉瑾に賄賂を送ったなんて話をしましたが、この人はその劉瑾の罪を上奏したために辺鄙な地域に左遷させられた人です。
でもそれによって陽明学が成立したと言っても過言ではないんですけどね。

儒学史において一大画期を起こした人ですが、軍歴というのもあるんですよ。

明の宗室である寧王が十万の兵をもって反乱を起こしたときに鎮圧したのはこの人です。


こんな人が来るんですから反乱側も動揺したことでしょう。

廬蘇と王受の二人は王守仁が来ることを知るとその軍門に降り、王守仁も二人の罪を数え上げて杖で打ったあとにこの二人を釈放し、これによって反乱は鎮静することになります。

王守仁は朝廷に上奏して兵を用いることの害を述べて果断な措置を取りやめることを提言し、皇帝もこれを受け入れました。

そして田州府を二つに分割(田州と田寧府)し、田州を岑猛の子の岑邦相に統治させ、田寧府は流官(土官じゃない任期で方々へ赴く官)知府を置き、廬蘇を田寧の要職に付けました。思恩府に対しても王受が廬蘇にされたような待遇をしたのです。

王守仁の一連の対応には明の朝廷の中でも批判がありましたが、この政策は王守仁がいなくなった後も継続したどころか、田寧府を廃止して廬蘇らの土着の官に田寧の地を治めさせております。
土着の勢力を一時的には押さえ込むことはできても再びその勢力を回復させるようになっていることが特に目を引きますよね~

明の地方支配の難しさってこういうところからも見られるんじゃないでしょうか。


って、瓦氏夫人が全く出てきていない!

ここまで実は前置きでして…(本編よりも長いという)

次回瓦氏夫人が出てくると思います(T▽T)

2009/08/04 00:00 [edit]

category: 瓦氏夫人

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瓦氏夫人のいた時代の広西の西部において二つの勢力が主導的でした。
思恩府と田州府です。
広西の東部は明の直接的統治が行われるようになったのとは対照的に、この西部は土着勢力が統治するという間接的な明の支配地域でした。

瓦氏夫人もこの地域の帰順州の土官岑璋の娘として生まれています。
そして瓦氏夫人がまだ「花ちゃん」と呼ばれていたであろうときに、この地域で大規模な軍事行動が起きたのです。

思恩府土官知府の岑濬が田州を攻撃してこれを攻め落とし、田州土官知府の岑猛が僅かな者たちと落ち延びるという事件が起きるのです。
この事件が起きた年は諸書によって違うんですが、弘治十五(1502)年~同十七(1504)年の間みたいです。
因みに岑猛が落ち延びた先は瓦氏夫人のいる帰順州ということですから…この時に二人が会っている可能性はありますよね~

さて岑濬が田州を攻め落としたことで明の朝廷は岑濬討伐を行います。
広西と広東の官軍と土官土兵に湖広の官軍と土兵の計十万八千の軍が六つの進路で攻撃をします。
十万を超える数の上に明朝で最強といわれた湖広の土兵の編成ですから、明朝の本気さがわかります。

というのも、明朝がこの地域の土着勢力をこの機に乗じて弱体化させて直接支配を浸透させようとした意図があったと考えられます。
もちろん十万以上の軍勢ということは岑濬の勢力を明朝も甘く見てはいなかったことでしょう。
広西は「湖広土兵」と並び称された「広西狼兵」がおり、岑濬が手に入れた田州はその兵を輩出する地だったのです。
こうした事情から明の朝廷は速やかに岑濬を討伐しなくてはいけないと考えたのでしょう。

この討伐軍は一月ほどで岑濬を攻め滅ぼすことに成功します。

この後、田州をおさめていた岑猛は職場復帰というわけにはいかず、福建への左遷を命じられ、思恩・田州の二府は中央政府が決めた非土官の張鳳と謝湖によっておさめられることになりました。
岑濬の乱後、明はこの地域の支配を強化する施策をとったのです。

もちろん施策に対して土着勢力は反対運動を起こします。
左遷を命じられた岑猛は福建行きを拒んで田州に居座り、田州をおさめるはずの謝湖の現地行きを他の土着人たちと共に反対して赴かせませんでした。

その後、岑猛は宦官として権勢を振るった劉瑾に賄賂を送って田州府をおさめる役につきます。

岑猛は賊を討伐するなどして政治的な足場を固めると同時に、広西で土着勢力が起こした反乱を裏で支援したりするのです。
こうした支援は土着勢力への信頼を取ることに大きな役割を果たしたことは想像に難くありません。
危ない橋を渡りながら自身の勢力を拡大していったということですね。

というよりも岑猛は半分好き勝手にやっていたと見た方がいいかもしれません。

岑猛自身、何度か他の土官を勝手に攻撃したりしているんです。
それでいて朝廷へは恭順の意志を示したりするんですからね。


さてさて瓦氏夫人なんですが、恐らくこの時期に岑猛のもとへ嫁いだと思います。
やはり政略的な結婚だったんでしょうか。
詳細はわかりません。


考えられる材料としては…

岑猛は岑濬に敗れて瓦氏夫人の父がいた帰順州へ落ち延びたこと。
瓦氏夫人は岑猛の正妻(第一夫人?)ではなかった。
岑猛と土着勢力との関係。

主なものはこれでしょうか?

多分、岑猛と土着勢力(この場合は岑璋)との関係という色彩が強いかと思います。

夫婦仲はどうだったのかというとですね。
これがかなり良くなかったみたいなんです。

どうも居室を取り除かれたりしていたみたいですから、仲が良いとは言えないと思います。


さて二律背反的なことをしている岑猛ですが、明の朝廷はそんなに甘くはありません。


嘉靖五(1526)年、岑猛討伐の軍が出るのでした。
総数は八万です。

岑猛の軍は敗北し、岑猛は瓦氏夫人の父がいる帰順州へ落ち延びるのでした。

ただ、この状況は岑濬に敗れて落ち延びた時のような状況ではなくなっていたのです。

その原因こそがまさに瓦氏夫人の問題だったのでした。

先ほども述べたように、瓦氏夫人は岑猛から愛されなくなっており、父親の岑璋はこれを恨んでいたのです。


さて、岑猛が帰順州へ行ったのは自発的なものであるように書きましたが、実は誘導されたものであったのです。
明側にとって最も恐れていたことは岑猛が大越(ベトナム)と連合することでした。
明がどうしてこの地域の土官の勢力を中々削れなかった(または削ることを断行できなかった)のかというと、この大越問題があったと言われています。
明は寧ろこの地域の土官を用いて大越に対したと見るべきだろうと…。
ですから明にとってこの地域の諸勢力が大越と結ぶことに対しては警戒しており、この地域の出来事には例えば十万を超す大軍を派遣するなど過敏とも思える反応をしたのも、大越の存在を意識していたとみるほうがいいと思います。

増してや広西に影響力をもっている岑猛が大越と結ばれるとこの地域失う可能性すらありますので、岑猛を大越と切り離し且つ早期に消すことが大事になってきます。

そこで明の討伐軍の将沈希儀は岑璋が自分の娘を冷遇している岑猛に対して恨みを抱いていることを知り、一計を案じて岑猛を岑璋のもとへと行かせ、岑璋に岑猛を殺害させたのです。

こうして瓦氏夫人は不仲とはいえ夫を自分の父親に殺されるという事件に見舞われるのでした。

そしてこれによって岑猛の兵乱は終結するのでした。


な、長い…(T-T)

なんか広西西部の情勢しか書かれていないような…。

次回は瓦氏夫人メインで!(゚Д゚)ノ

書けないかも…(T▽T)

2009/08/03 00:00 [edit]

category: 瓦氏夫人

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Sun.

瓦氏夫人  

次期拡張パックの発表会で気になる画像がありました。

これです。

地域の実力者

えっと…これはどこかのアングラサイトで拾った謎の画像でして…。
決してどこかのサイトから違法コピーしたものではありません…。

…。

…。


このブログはずっと非公開にしますのでお見逃しください(T人T)

これは日本・朝鮮・台湾・華南の実力者の画像なんですが…残りの三人が判りません。
SS掲示板には左が李舜臣じゃないかとか、右上は朝鮮の光海君じゃないのかと書いてます。
で、右下の女性っぽいシルエットは…?

やっぱりオリキャラ?

多分オリジナルのキャラなんでしょう~


ですが、ここで私は新説を掲げます!

残りの三人は左から順に李舜臣(朝鮮)、鄭芝竜かその類(台湾)、瓦氏夫人(華南)です!

…前の二人は検索しておけばウィキペディアとかその類でわかりますけど、瓦氏夫人なんて検索しても日本語のサイトだとあまり詳しくは載っていないはずです。

マニアック過ぎました(T▽T)

時代も他の三人は多少被るでしょうが、この人の場合は30~50年くらい前ですし。

やっぱりオリキャラ説が最有力ですね。


と、取り敢えずヨーロッパ人が中国へ来た時の人ですので、この機会に取り上げます~


この瓦氏夫人については中国では結構取り上げられていたりするんですけど、日本でこの人を取り上げたものって…私が見た限り二つしかありません。
ネット上には簡単にかいたものなら結構見かけるんですけど、より詳しく取り上げたのはないんです。

ということで数回に分けて少し詳しくこの人と彼女がいた広西の情勢について取り上げてみたいと思います。
高校(中学も?)の歴史の教科書にも載っている人が出てくるかも?(未定ですが)



実質的な内容は次回にするとして(丸投げ)、今回はどうでもいい知識を少し詰めこんでもらいます。

えっと瓦氏夫人と呼ばれていますが、この人のお父さんは広西の帰順州土官の岑璋という人です。

まず土官って何かということになりますよね。
これは元(モンゴル)の支配の頃から中国の少数民族(本当は少数民族に限ったことではないらしいですけど)の有力者の支配権を認めて、王朝支配に組み込んだもので、これを土司や土官と呼ぶんです。
こうした官位は世襲されるものですので、土着する人間の付く官位ということで「土司」や「土官」といわれたらしいです。
土司と土官の違いなんですけど、基本的にほとんど変わりません。
所属が違うだけで実情は同じ権限だったようです。
ウィキペディアの記述を信じるか私の発言を信じるかはお好きなように…(T-T)

上記で気付かれた方もいると思います。
瓦氏夫人はチュアン(壮)族の人です。
高校の地理で使った地図帳を見ていただければわかると思いますけど、広西のところに壮族自治区ってありますよね。そこが舞台です。
壮族の人たちは昔彼女の廟を建てて祀っていたらしいです。
いまは残っているかどうかわかりませんが。


瓦氏夫人なんですが、田州土官の岑猛のもとへ嫁ぎます。
岑璋の娘が岑猛の所へ嫁ぐ…これでなんで瓦氏夫人って呼ぶのか?

これについてはよくわかっておりません。
林琳氏の説では彼女は岑氏の出身で、同じ岑を姓とする岑猛へ嫁ぐことは同姓不婚の慣習があることで宜しくないことであるから、彼女の本名岑花の「花」とチュアン語で同音の「瓦」を姓としたことから瓦氏としたといいます。
ただ、林氏の説(特に同姓不婚の慣習)には疑問を感じます。
蛇足ですが、瓦氏夫人のお墓から本名とされた「花」はどうも幼名だったみたいなのです。幼名だから林氏の説が間違っているという材料にはなりませんのでそこはご留意を。

ということで雑な知識を積み込んでもらったところで次回に続くw

2009/08/02 00:00 [edit]

category: 瓦氏夫人

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