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Sat.

関羽の周りの人  

エルオリエンテで中国が実装されたら確実に発見物かなにかで出てくるだろうと思われる関聖帝君(関羽)について前にタラタラと語ってしまったことがありました。
実は関羽については私よりもリアルフレの方が詳しいのでほぼ友人からパクった内容なんですけど(今明かされる微妙な真実)、今回は関羽と関わった(史実的というよりも民間伝承的な分野で)人について。

関帝廟とか関聖帝君が描かれた絵とかを見てみると、関羽の左右にお供っぽいのがいます。
三國志を読んだりした人ならわかるでしょうが、この二人は関平と周倉ですよね。
『三国志演義』において関羽の養子となったと関平と、敵側として関羽の武勇を見て後に関羽の配下となった周倉です。
この二人が関羽に従うようになるのは、劉備と生き別れになった関羽が曹操のもとへ身を寄せ、後に劉備の居所がわかってその下へと戻る所謂「千里独行」の時です。

周倉については史書にその名が確認できず、架空の人物といわれております。
ただし「三國志平話」や『花関索伝』に周倉は登場しており、前者は関羽とは全く関わりのない人物になっていますが、後者では関羽の配下となっていたりします。
この二つの書が成立したとされる元末には周倉というキャラが広く知れ渡っていたということになるんでしょうか。
どうやら元末明初の頃にはすでに関羽信仰と関連して周昌という者がいて、これが周倉のモデルではないかという説もあります。

さて関平の方ですが、「演義」においては関羽の養子となっていますが、陳寿の『三國志』などでは養子とはなっておらず、実子だったとされてます。
金文京氏は「演義」の先行テキストでもある「平話」や「花関索伝」でも関平は関羽の実子と書かれているので養子設定は「演義」で付け加えられたものではないかと述べております。
竹内真彦氏は関平と周倉が関羽の左右に侍る二人組という意図で以て「演義」に書かれたのではないかと指摘し、竹内氏の他に上田望氏も「千里独行」の文が他の部分とかなり異なっていることを説き、関平と周倉が関羽に従うところを含めたこの話は後から挿話された可能性があるとしています。
ですから関羽に従う周倉とセットな関平も時を同じくして関羽に従う話を入れるために実子ではなく養子となったというお話を入れたのではないかと・・・。

演義ってそんなに細かな細工が施されていたんですか…。
所詮演義とか侮ってはいけませんよ。

参考文献
上田望「『三国演義』の言葉と文体」 『金沢大学文学部論集』言語・文学篇 25号 2005年
竹内真彦「『三国志演義』における関羽の呼称」 『日本中国学会報』 53 2001年
竹内真彦「関平が養子であることは何を意味するか」 『狩野直禎先生傘寿記念三国志論集』汲古書院 2008年
二階堂善弘『道教・民間信仰における元帥神の変容』 関西大学出版部 2006年
古屋昭弘ほか『花関索伝の研究』 汲古書院 1989年
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2009/11/28 00:00 [edit]

category: 関聖帝君

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Sat.

関帝信仰のお話  

前回はグダグダな記事でごめんなさい(T▽T)

今回はすこし頑張ってみます。



さてさて現在は中国の神様としては最も有名といってもいい関聖帝君こと関羽ですが、いきなりメジャーな神様になったわけでは当然ありません。

古くは南北朝時代に関羽信仰の淵源があったとされています。
その理由としては史書に記されている関羽の事跡ではないかと思います。


陳寿の『三國志』の本伝を見ると関羽の特徴的なものと思える事跡は…。

①袁紹の大将顔良を大軍がいる中で単騎で馳せてその首を持って帰るという武勇をみせる。

②曹操の下で厚遇されていたが、共に死の誓いをした劉備の下へと去っていった。

③樊城の曹仁を攻撃、曹仁の援軍を撃破し、その威信は天下を震わせた。

これだけでも十分祠とか建って祀られますよね。
でもそれなら何で関羽が有名になって他の人(例えば曹操とか劉備とか他色々)はという疑問が出てきます。
これについてはあまり明確な根拠というものはありませんけど、趙翼の『廿二史箚記』の巻七「関張之勇」に関羽と張飛の武勇は後の時代の勇猛な人たちの比較対象としてしばしば各史書に持ち出されており、「天生神勇」と趙翼も書いていることから、武勇を以て信仰の対象にされたものであろうことが推測されます。

因みに関羽といえば長身で赤い顔というのは『三國志』には記述がなかったような…。
関羽の外見については結構伝承とかが混じっていたりするのでややこしいんですよ。

そんな関羽が公的に信仰されるようになったのは…明確な始まりはわかりません。
ですけど唐代に仏教の伽藍神となっています。
伽藍神というのは…お寺の守り神みたいなものと言った方がいいでしょうか。
関羽といえば道教の神様というイメージが強いですけど、仏教でも信仰されているんです。
実は日本でも黄檗宗がメインとなって関羽信仰を広めた可能性があります。
ですから黄檗宗のお寺に行けば関羽が祀られているかも?

そしてそんな関羽も武神として国家的な公認を受けて祀られるようになります。
と言っても、それは太公望の下という位置づけだったんですけどね。

その後、宋の時代に入ると民間の講談とかで関羽が出てくる神話的なお話が出てきたりと、かなり広く関羽の物語と信仰が浸透していることが窺えるような状況になっていきます。
加えて宋王朝が所謂「敕額祠廟」という道教の教義や廟を管理するようになり、関羽を武安王に封じました。
統治者からすれば、超絶的な武勇を持ち且つ一人の主君に忠誠を尽くす関羽は好ましい姿であったんでしょうね。この関羽に対する国家を上げての信仰はモンゴルの支配においても続けられました。

DOLの世界でもあるはずの明代になると、明の建国者洪武帝によって関羽の武安王という号を取り除かれ「漢前将軍寿亭侯」としましたが、永楽帝の時に関羽を明朝が認める最高の武神という位置付けにしました。
とはいうものの、建国者でもある洪武帝が関羽の王号を除いたことを全面的に否定することも中々出来ませんから徐々に徐々にという形だったのかもしれません。
ウィキペディアの関帝の廟名という項目に書かれていることもこれが原因なのかもしれません。

因みにこの明代に「関聖帝君」の名称が付けられたのです。
って、「関聖帝君」は通称で正式名称は「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」なんてキーボードで打つのも面倒なくらい長い名前です。


もはや関羽信仰は止められません。
清に入ってもです。
ヌルハチ自身が関羽を信仰し、清朝の軍事的儀式の時には関羽が持ち出されるほどでした。

とまあ、武神という側面の関羽でありますけどすでにそれだけの神様じゃなくなっていたようなのです。
武神の他にも財神や水神といったことで関羽が信仰されていたんです。
どうしてそうなったのかというのはいまいち不明ですけどね。


こんな感じで関羽信仰について…収拾がつかない!(TДT)


取り敢ずこれで誤魔化そう






かんぬ_m_image


お見苦しくて本当にごめんなさい!(T▽T)



だから関羽信仰やりたくなかったんだー!(T▽T)

で、でもこれで(ちょっとだけ)関羽信仰につい体系的にやった数少ないブログになったはず…(T▽T;)

凄い付加価値のあるブログなんですよ!(嘘)


参考文献
井上以智為「関羽信仰の普及-1-」『福岡商大論叢』 1(4) 1951年
太田出「清朝国家・軍隊・関聖帝君」『史学雑誌』 107巻10号 1998年
太田出「多民族国家・清朝と関羽崇拝」『歴史と地理』(世界史の研究205)589号 2005年
大塚秀高「関羽と劉淵:関羽像の成立過程」『東洋文化研究所紀要』 134 1997年
山田勝芳「東北アジアにおける関帝信仰-歴史と現在-」『東北アジアにおける関帝信仰の歴史的現在的研究』2000年

2009/07/04 00:00 [edit]

category: 関聖帝君

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